インターネットが一般的に普及する黎明期ともいえる1996年に設立されたネット広告会社の草分け、D.A.C デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社。ネット時代の爆発的成長とともに2001年にヘラクレス上場を果たし、社員数は2009年現在で900名を超える企業へと成長したD.A.Cの代表取締役社長 矢嶋 弘毅氏に、同社の沿革と自らのキャリアを合わせて語ってもらった。
デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社 代表取締役社長 矢嶋弘毅氏
第3回「大きな流れと小さな夢」
1996年の設立からはじまり、ネット業界の成長曲線に呼応しながら、矢嶋の率いるDACは順調に拡大路線をたどる。2001年のネットバブルの崩壊という大波をも乗り越えた同社は、その後2003年業界の復活にあわせ多くの会社との提携・合併業務などに注力し、その領域を更に拡大しはじめる。
「2003年、ブロードバンドの普及率も36% を超え、定額制によるネットのスタイルも変わってきて、私たちのビジネスの基盤も確実に整ってきました。また博報堂・大広・読売広告社というDACの株主3社が合併し、博報堂DYホールディングスになったのもこの年ですが、DACというコンソーシアムがこの合併に際して1つの大きなトリガーになったのだと感じます。また子会社である『スパイスボックス』を設立したのもこの年です。
翌2004年にはブロードバンドの普及率は50%を超え、ネット事業の広まりはさらに本格化しはじめました。同社は広告掲載に関する進行管理会社『(株)アド・プロ』を設立したり、インターネット広告の戦略的プランニングを支援する総合的なツール『AD-Viser』を開始、また7月にエルゴ・ブレインズに出資、業務提携し、メディア事業領域に参入したのです。
この年のネット広告費は1814億、ラジオを初めて抜き、当初いわれていた『ニューメディアは屍』も完全に払拭されたと感じました。この変化にはやはりブロードバンドの普及が広まったというのが大きな要因だと思っています。Yahoo!Japanも1日のページビューが10億を超えるなどし、それまで小さかった会社がどんどん大きくなっていくケースを何社も目の当たりにしました。楽天がプロ野球球団を設立したのもこの年です。
2005年、DACの売上は前年比から100億を超え248億8200万を達成し、日本だけでなくさらに海外への展開を見越して北京に『北京迪愛慈商務諮詢有限公司』(現北京迪愛慈広告有限公司)という50名ほどの子会社を設立しました。またこの年には現在のオフィスである恵比寿のガーデンプレイスに移ったのです。私が会社設立時に考えていた小さな夢がありまして、それは『タクシーで名前をいってどこからでもビル名で付けるオフィスに入りたい』というものなのですが、この年になってようやくそれを実現することができたなと思いました(笑)。博報堂が上場したのもこの年ですね。」
バブルの崩壊から復活し、順調に成長を続けるインターネット業界がある意味頂点に達したのはやはり2006年というのが1つの節目ではないだろうかと感じる。その年のDACの業績はなんと売上高311億8600万、1月には株価の最高値である33万円、時価総額にして1604億という巨大な組織を矢嶋は作り上げることに成功する。しかし異常なほどの加熱は時にひずみをも生むのが世の常。記憶に新しいライブドア事件が起こったのもこの年である。栄枯盛衰の両面を垣間見る事例として興味深い。矢嶋はさらに手を緩めることなく、事業の多角化に挑戦する。
「このあたりから積極的に専門会社を分社化しようという流れを推進して行いました。アイスタイルとジョイントベンチャーでアドネットワーク事業を推進するアイメディアドライブを設立したり、モバイル広告のインタスパイア、メールマーケティングのエルゴブレンズなどを子会社化したりと、実績の出ている事業は分社化することでシナジーを生む流れを進めていったのです。
この領域において、分社化して展開することについての事業シナジーが生まれることを見越しての投資であると考えています。とはいえ私が設立当初に考えていたおもちゃのお金を増やす、という感覚はいまだに消えているわけではないのです。」
矢嶋はあくまでもそのスタイルを変えない。7名からスタートした企業を時価総額1600億を超える企業へと育てる中で本当に必要なのは、企業というものをある意味冷静な目線を崩さずに捉え分析するという、彼独自の経営スタンスであるのかもしれない。次回最終回では、現在に至るまでの同社の成長過程と、その過程の中で蓄積された彼の経営スタンスをもう少し深く語ってもらおうと思う。
(最終回につづく)