インターネットが一般的に普及する黎明期ともいえる1996年に設立されたネット広告会社の草分け、D.A.C デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社。ネット時代の爆発的成長とともに2001年にヘラクレス上場を果たし、社員数は2009年現在で900名を超える企業へと成長したD.A.Cの代表取締役社長 矢嶋 弘毅氏に、同社の沿革と自らのキャリアを合わせて語ってもらった。
デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社 代表取締役社長 矢嶋弘毅氏
第2回「大波」
1996年広告・メディア関連の企業7社の共同出資により設立されたDACの社長に35歳という若さで就任した矢嶋は「ニューメディアは屍ばかり」といわれた状況の中で事業をスタートする。時代はYahoo!Japanが創立し、現在1日15億ページビューを誇るモンスターサイトが1日100万PVだった時代である。
「各社から約1名ずつのメンバーが集まり5名でスタートしたDACで経営戦略の立て直しを行い、あっという間に96年は過ぎていきました。そしていよいよ年度が変わって3月、第1期がはじまりました。97年といえば5月に楽天がスタート、9月にダブルクリックJapan創業、11月に前年スタートしたYahoo!Japanが上場をした年です。その年に初めてDACとして初の正社員を雇用し、総勢7名でのスタートとなったのです。とはいえネット広告のシェアはまだ9.2%、1155万人にすぎない、そんな状況でした。」
自分の古巣である博報堂はじめ他社の共同出資ではじまった同社において、社長という立場を矢嶋は「モノポリー」に例えたのは前回書いたが、その過程がネットの隆盛に伴い成長していく。
「第2期となる98年、売上は前年比約5倍の6億1300万円でした。単年度でも黒字を達成でき、社員も12名になりました。オフィスも恵比寿西に60坪の場所を確保し、アドネットワーク型商品販売がスタートしました。また、この年はサイバーエージェントが創業した年でもあります。
その後第3期99年、4期2000年と売上は毎年2.5倍ずつというスピードで加速的にあがってくるにつれ、社員数も増え始めたのです。第3期には1年で渋谷東のオフィスに引っ越し、始まった当初の30坪から110坪のスペースを確保してその加速に備えていったのです。
引っ越しに関する私見ですが、社長の個性が色濃く出るのではないか、そんなふうに思います。私はどちらかというと余計なものにお金を使うことがあまり好きではないタイプなのでできる限りギリギリでやってきたのですが(笑)、その急成長には選択の余地がなかった、そんな感じでしたね。
ただ正直な感想としてラッキーが続いたというのも実感としてあります。広告業界がこのあたりで大きく変わりだし、その流れに乗れたというのも弊社の急成長を支えてくれたのだと思います。
2001年7月にはナスダックでの上場を果たし、ニューヨーク事務所も開設しました。またEYEBLASTERとの提携でリッチメディア広告の分野にも進出するなど、動きの大きな年でした。」
時代の波に乗るとはまさにこのようなかたちで数字や事業スタイルに表れてくるのだろう。ネット市場がここまで成熟する前のまさに爆発的な流れを矢嶋は社長として引っ張り続けていた。しかしそんな流れの中、試練はいきなり訪れる。ネットバブルの崩壊である。
「2001年9月のネットバブル崩壊に伴い、業界を取り巻く状況にもかなりの変化が出ました。業績に関しても前年から一気に厳しい状況へとシフトしました。ただ、その時にちょうどYahoo!JapanがY!BBの商用サービスを開始し、一気に攻勢をかけたのです。バブル崩壊という状況を考えると、孫社長の業界における功績というのは非常に大きなものがあると思っています。また、そのころから私はグローバルな見地をもって展開するというビジョンを明確にもち、それを実現する為の挑戦としてニューヨーク事務所を開設をするなど、試練を乗り越えるきっかけつくりができたのもこの年だったと思います。」
ネットバブルの崩壊によって2001年、2002年と経常損益を出したDACは、2002年に上場してから現在に至るまでの株価最安値を更新することになる。当時の急成長から一転して株価の最安値を更新するような展開がどのような影響を与えるのか想像もつかない領域ではあるが、現在の矢嶋を見る限りその影響はあまり見られない。そこにはその大波を乗りこなしてきた矢嶋の余裕すら感じるのは私だけだろうか。
「2003年、ようやくITバブルから復活し、売上も102億4500万、前年の1億7400万損失から一転して経常利益4億2000万まで戻すことに成功しました。5月にはYahoo!Japanの広告取り扱いも開始し、また12月には子会社であるスパイス・ボックスを設立しました。ネット広告規模1183億、普及率が60%を超えて時代の中で定着してきた、そんな時代ですね。」
この頃から同社は、着実にしかしダイナミックに、子会社や他社との事業提携などを積極的にしかけはじめる。矢嶋の考えた「モノポリー」はさらに大きな展開を見せ、業界の中で確固たる存在感を確立していくことになる。
(第3回に続く)