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11-1矢嶋弘毅

DAC (デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)株式会社 代表取締役社長 矢嶋弘毅氏 第1回「モノポリー」(全4回)


インターネットが一般的に普及する黎明期ともいえる1996 年に設立されたネット広告会社の草分け、DAC デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社。ネット時代の爆発的成長とともに2001 年にヘラクレス上場を果たし、社員数は2009 年現在で900名を超える企業へと成長したDAC の代表取締役社長 矢嶋 弘毅氏に、同社の沿革と自らのキャリアを合わせて語ってもらった。

デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社
代表取締役社長 矢嶋弘毅氏

1 回「モノポリー」

現在900 名を超え、さまざまな種類のネット広告事業を展開しているDAC の沿革は少々変わっている。もともと広告・メディア関連の企業7 社の共同出資により設立されたという生い立ちなのだ。設立当初から社長に就任した矢嶋にとって、どのようなスタートだったのだろうか。

もともと私は博報堂の出身です。1984 年に入社し、96 年のDAC 創業までの12 年は博報堂でさまざまな部署での仕事をしてきました。最初は研究開発部門といって戦略論や調査といった自分としてはちょっと面白くない部署におり、89 年からはマーケティングに関わり、そこからずっとマーケティング畑を歩いてきました。最初は某大手家電メーカーの事業戦略、商品開発の仕事に携わり、その後92 年に参加した「21 世紀VISION 」プロジェクトという新しい広告事業モデルの姿を模索する部署に参画したのです。それが現在のDAC の礎になる部署でした。

また、93 年からは「マルチメディアソフト事業部」という部署も兼任し、ビデオゲームのソフトタイトルプロデューサーをしていました。ゲームのタイトルを考える部署ですね。当時博報堂も10 タイトルくらいのゲームを出しましたが、そのうち5 個のタイトルは私がプロデュースしたものです。そのように段階的に3 つの部署を兼任しながらだったのですが、特にDAC の礎となる「21 世紀VISION 」プロジェクトに関しては、当初から目的がはっきりしていたわけではなく、まさに新しい情報の潮流の中での模索の毎日だったのです。」

3つの部署を兼任するという激務をこなしていた矢嶋が35 歳の96 年12 月、DAC が設立されることになり、いきなり同社の社長へ就任することとなる。博報堂ほか7 社の共同出資で設立されたDAC は、各社から約1名が参加する、いわば業界の中でも新しい試みの極秘プロジェクトだったという。

96 年という年を振り返ると4月にYahoo!Japan のサービスが始まった年なのです。当時は1100PV だったということですが、今では15PV です。ネット広告の規模も16億ですが、現在は6000億です。そんな年でした。

今ではネットの存在が当たり前のように生活の中にあるのだが、ほんの13年前の数字を紐解くだけでも、この業界がどれくらいのスピードで成長してきたのかを伺い知ることができる。そこで産声をあげた同社のはじまりに対して矢嶋はこう語る。

「当時は『マスメディア以外は成功しない』という固定概念が強く残っており、『NEW MEDIA は屍ばかり』とまでいわれていました。また、出向するという立場が今とは異なり『おじさん』扱いされていたような中でのスタートでした。

30 坪のオフィスで社員は5 名。管理部門なし、請求書のフォーマットもなしといったような全てが最初からのはじまりでしたので、戦略の構築からはじめて翌年の2 月くらいは過ぎていきました。それまでは博報堂で掃除も行き届いたきれいなビルにいたわけですが、1 週間でふと気がつくとゴミが非常に目につくわけです。『あ 自分でやらねばならないんだ』ということに気がついて掃除を始めたりといったところからすべて『戦略の建て直し』だったのですね。」

「新しい広告の姿をビジネスモデルへと変換する」使命を負って登場し、今や業界で知らない者がいない同社だが、はじまりはやはりマンパワーがものをいうのはどの企業でも変わらない。矢嶋自身の当時の本音を聞いてみた。

「正直ゲームタイトルプロデューサーの仕事が楽しかったので『どうなるんだろう』という不安はもっていました。また先ほど述べたように各企業からの寄り合いメンバーでのスタートで、社長とはいえ自分が起業して設立した会社ではないわけです。しかしまったく新しい領域に踏み込んでビジネスを創造する、その魅力は感じていました。そこで私は意識を変えました。これは『モノポリー』だと(笑)。自分のお金ではない以上、これは一種ゲームととらえ、新しいビジネスを創造しながらどこまでこのお金を増やすことができるのか、モノポリーのようなゲームとして捉えてみよう、と。」

元ゲームタイトルプロデューサーという仕事柄だろうか、その意識変革を「モノポリー」というゲームを例に挙げて語る矢嶋。とはいえ鳴り物入りで設立された同社の社長に就任した彼の胸中が、そのような甘いものではなかったことは容易に想像できる。

次回からは矢嶋流『モノポリー』がどのような展開を見せていったのか、日本のネット業界との歴史と共に語ってもらおうと思う。

(第2回に続く)

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