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10-1藤田守哉

CROCS ASIA PTE.LTD 日本代表 藤田守哉氏 第1回「コンサルはコンサル」(全4回)


特徴のあるフォルムとその履きやすさが短期間に口コミで爆発的に広まり、いまや毎夏ごとにいたるところでその姿を見ない日はないほどの人気商品となったクロックス。一時はエスカレーターでの事故で報道された時期もあったが、現在でも人気商品として定着している。今回はその日本代表 藤田守哉氏の遍歴をたどってみたい。

Crocs asia pte.ltd 日本代表 藤田守哉氏

第1回「コンサルはコンサル」

クロックスの日本支社の設立は2005年。藤田はもともとCrocs Asia(本社シンガポール)に北アジア5カ国全域を統括するために雇われた。今は日本の代表も兼務している。実は藤田の出自は流通ではなはない。ロサンゼルスで10年、会計事務所のコンサルタントとして、現地日本企業の人事、経理、ファイナンスといった分野で殆どの業務をこなした後帰国した。

クライアント企業を外からでしか見れない、またその目線が求められるコンサルタントという仕事を10年こなした藤田はそこで実際の事業会社でのキャリアをスタートする。

「元が会計事務所だったので、専門領域はファイナンスが中心でした。主にアメリカ企業のファイナンス畑を歩いてきました。最初はギャップジャパンでファッションなど流通の業界に入ったのですが、その後ワーナーブラザーズのホームビデオ部門でアジアのオペレーションを担当し、そのとき初めてアジアでのビジネスの面白さに気がつきました。その後イタリアのスポーツブランドであるFILAでの仕事でアジア統括オペレーションを担当し、香港で2年ほど過ごしました。そのFILAが買収されたことをきっかけにクロックスに入社したのが20079月の話です。」

アメリカでコンサルタントとして10年の長きに渡って活躍しながらも「コンサルはコンサル」という視点から事業会社への転身をはかった藤田がクロックスに入社したのはまだ1年半ほど前のことである。当時日本での爆発的なブームをちょうど迎え、あの事故騒動の件もあった年である。まさに激動の時期に入社し、現在は日本の代表を務める藤田は次代の会の参加者にこう語った。

「私はどちらかというと起業をするという経験をお話できるわけではありません。今までの私のキャリアは、会社が急激に大きくなり、そこに問題が発生するといったフェーズで採用されることが多いです。なので私は100億くらいの急成長した会社で発生した問題をどうクリアしていくか、というテーマに即してお話できるかな、と考えています。」

藤田曰く、急激に成長する会社ではその目まぐるしく変わるフェーズにおいて仕事の内容もどんどん変わるという。急成長のフェーズにある会社でキャリアを積んできた藤田の視点は、これからの時代を担う経営者にとって非常に参考になる部分があると思われるが、ここで今一度市場に登場するやいなや大ブームを巻き起こしたクロックスの沿革に触れてみたいと思う。

「クロックスの創業は2002年、アメリカ コロラド州にいた3人のヨットマンが始めた会社です。彼らがヨットをやる中であるカナダのメーカーのサンダルをたまたま見つけたのがきっかけです。軽くてカラフル、海でも沈まないし何よりデッキの上で足跡がつかない。これはヨットにぴったりだと彼ら自身がユーザーだったわけですが、あるとき『これは売れるのではないか』とこの年の11月にフロリダのボートショーで出展されたのが最初です。そこから口コミが口コミをよび、ブームになったのが今の成長の軌跡です。アジアは2005年シンガポールから始まり、日本はその年7月創立ですから、実質国内販売は2006年からなんですね。その前はアメリカ、特にハワイに来た日本の観光客の方が珍しいといって買っていかれたのがブームのきっかけになったのではないでしょうか。」

もともとカナダのメーカーが開発したサンダルが現在のクロックスの原型であったという。それも最初のボートショーではたった200足の販売だったというが、それが世界的ヒット商品になるには何かしらのわけがあったと思うのだが、それを藤田はこう分析している。

「この会社が成功した原因が2つあります。1つめは創業者が成長期に経営に固執しなかったことです。ブームの到来にあわせ経営のプロを投入したのですね。実際3人の創業者のうち2人は現在在職中で、1人はデザインで、もう1人は営業として新ブランドの立ち上げを行っています。もう1人は会社を辞め、クロックスを売りたいということで店を何軒か経営しています。

もう1つはアメリカの本社が世界展開をするときに、本社からのコントロールに固執しなかったということです。ちなみに私はアメリカの会社でキャリアを積みましたが通常ブランドの一括管理が非常に厳しい。当初アジアのCOOはシンガポールでそのマーケットの違いを理解していたため、方針としてそのようになったのが結果としてはよかったのだと考えています。」

ただよい面ばかりではない。それだけの急成長のひずみの部分も彼はこう分析している。

「これだけの急成長にインフラがついていかなかったまま、売上だけが急成長してしまいました。外から見れば羨ましがられるのですが、実質的にはプランニング精度が低いというよりは、プランニングが不可能で実情は火の車だったというところでしょうか。ブーム時には販売店が予約を多めにすることによる在庫過多の状況をつくってしまいました。そんなアメリカ、そしてヨーロッパでの失敗を見る余裕が遅れて販売を開始したアジアにはあったので、売上自体は順調に推移をしています。」

さすが元コンサルタントだけあって分析はあくまでも客観的な言葉が並ぶ。次回はそんなコンサルを卒業した彼がクロックスに入社した後の人もいない、在庫もない、システムもないと「ないないづくし」だった中で日本での成功を収めた理由と、よくもわるくも同社の名前を一躍有名にしたあの事故についても語ってもらおうと思う。

(第2回に続く)

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