楽天株式会社 取締役 常務執行役員 安武弘晃氏 第3回「拡大期」(全4回) 店舗数25,000店舗、会員数5000万人。インターネットの通販事業において日本で最大級の売上を誇る楽天株式会社。2000年に上場し、野村克也監督率いるプロ野球球団をはじめ銀行事業、証券・クレジット事業、旅行事業、ポータルコンテンツ事業などを多角的に運営し、1年間に1兆円もの金額が流通するインターネットコマースプラットフォームを構築している。 ネット時代の到来に彗星のごとく表れ、瞬く間に時代の雄として駆け上がった同社の軌跡を、創業時からのコアメンバーとして支えてきた安武弘晃氏に語ってもらおうと思う。 楽天株式会社 取締役 常務執行役員 安武 弘晃氏 「第3回 拡大期」 ネットの風雲児として著名な三木谷社長のもと「尊敬される会社」を目指して厳しい規律の中で創業し、人材確保に苦労しながらも始動しはじめた楽天株式会社は、いよいよ日本最大級のネット事業体としてのスピードを上げ始めるフェーズへと突入を開始する。 『創業期からずっと必死に突っ走りながら、上場を目指して新しいフェーズに移行していきました。やはり拡大する仕事を支えるために人を採用しなくてはなりません。最初は普通に募集をしても誰も知らない会社を志望してくれるわけもなく、知り合いを連れてくる形でした。当時の面接での質問は「引越しできますか?」という非常識なものでした。まず電車がある時間には家に帰れないわけで、歩いて帰れるところに越してもらうことを前提にしてました。 また、上場に向けて新規サービスを立ち上げることにもなりましたが、「気合と根性、ノリと勢い」という感覚で立ち上げた形でした。例として1999年9月に個人向けオークションを立ち上げたのですが、このときのこともよく覚えています。ある日社長が私の肩をたたき「ヤスちん(安武氏の愛称)、オークションってあったらおもしろいと思わない?」といわれ「いいですねえ」といったら即「じゃあ作って」と(笑)。 当時はヤフオク(Yahoo オークション)がまだなかったので、オークションという概念も一般認知として存在せず、一般の人に理解をしてもらえるオークションとは何か?を考え、サービス名を考え、規約をつくり、HTMLもプログラムも書き、サーバーも購入、値切り交渉まで全てひとりでやりました。。 最初は他の仕事もやりながらでしたので、なかなか進まず、ある日新しく借りたオフィスに一人で机とベットをコンピューターをおいて3ヶ月間ぐらいほぼ泊り込みで作業をしてました。肩を叩かれたのが5月、そしてオープンしたのが9月4日でした。 その頃作りながらも「こんな素人が作ったサービスにクレジットカードを登録して使う人などいるわけない」と思っていましたが、オープンして1分後にはカードを登録する人が実際いて驚きました。 楽天市場のスタートのときもそうですが、昔の西海岸のゴールドラッシュのように「金がでる」と聞くと「とりあえず走る」というようなフロンティアスピリッツを持った人が世の中にいるのだな、と感動しました。その経験を通してやはりベンチャーとしてチャレンジができるということの充実感、そしてそのチャレンジをすることに対してある程度の数応えてくれる人が必ずいるのだな、ということを実感しました。』 やはり若さゆえ成し遂げることができたというほどのハードワークだが、社会に現れたネットの新しいビジネスモデルに対して、新たな仕掛けを作り出すという充実感の魅力がそれを克服させたのだろう。 さらに楽天の変化は続く。 『その後社名を正式に「楽天」に変えました。社名が変わることは当時はとても抵抗がありましたが、サービスが有名になるにつれ、楽天という名前の存在感が強くなってきたのですね。 また、楽天の初期は出店頂いている店舗様の名前がトップページに一覧で出ていたのですが、数が増えるにつれて、当たり前のことですが、トップページに店舗が掲載しきれなくできなくなりました。 カテゴリわけをしなければならなくなるわけですが、店舗様にはそれが1階層下になることで機会損失を招くと感じられ、反対意見も当然強かったのですが、あくまでも消費者のニーズを満たす為には選択の余地はなかったのです。これは拡大に伴う大きな変化だったと思います。 さらにそれまで固定額で出店して頂いていたシステムを従量課金制へと変更しました。店舗様への説明会では、かなり批判も頂きましたが、拡大するにつれシステム投資の額も増えてそのままでは成立しないことは見えていたので、将来モール運営側と出店店舗様とのWin-Winの関係を構築するための変更ということで、その理由を口頭で店舗様に説明する社長の誠実な姿勢は本当にすごいな、と感心しました。』 新規事業を計画し、それを作り出しながらも巨大化する楽天市場のサイトも運営していく。その成長に従って人員の規模も倍増の一途をたどるわけだが、そこにも大きな変化が現れるようになった。 『20名規模から40名規模になり、2フロアに分けたあたりからコミュニケーションミスが発生しはじめ、100名を超えたあたりから全員の名前が覚えられなくなり、名札の着用が必須となりました。 200名を超えたあたりからは、ルールを決めないと何が正しいかという判断において自分なりの解釈をする人も出てきました。200名以上は何を話すにしても全員にそれを浸透させるのは至難のわざになるわけです。そして500名を超えたあたりからは「仕組み化』、そしてブランド統一やコンセプトの必要性というそれまで考えなかったフェーズに次々と突入しました。 しかし「情報を全員に伝え共有し、全員が経営者の視点に立って判断するのであれば会社全体がよくなるはずだ」という社長のこだわりがあり、全社員に向けての情報共有、プレゼンテーションの機会を何人になっても継続してきました。 200名を超えたあたりであまりにも大変で廃止するかという話もあったのですが、やめてしまうとやはり情報共有がされず問題が出るので、そこで3000~4000名になった今でも月曜日の朝は必ず全社員参加を基本理念とした朝会での情報共有というものをでやっています。 すごいのはニューヨークのオフィスからも参加していることです。日本では月曜日の朝ですがむこうでは日曜日の深夜ですから(爆笑)。」 強烈な企業文化を氏は淡々と笑い話のように語るが、それが全て「実話」である、と書けてしまうあたりが、やはり世界規模で拡大する企業になる理由なのか。 それが正しいとか正しくないとか、好きだとか嫌いだとかいう次元ではなく、それを超える企業としての求心力、スピードをもっていたのだろう。 いよいよ次回は最終回。彼の言葉でいえばこれまでは「拡大期」。そしてその後から現在に至るまでの「ジェットコースター期」へと突入する3部構成だという。既に国内では圧倒的にブランドを確立しながらも、あくなき挑戦を続ける同社の将来へのビジョンも含めて語ってもらおうと思う。 |