インフォテリア株式会社 代表取締役社長 平野洋一郎 第1回「肥後もっこす」(全4回) IT業界にいる人間であればほぼ殆どの人間が聞いたことがあるであろう「XML」。 多様化するWeb2.0時代のデータ管理において、拡張性の高い運用を行う場合にはもはや標準といってもいい言語で、今年はついに「広辞苑」に掲載されたほど普及した技術であり、現在マイクロソフトの最新版オフィスはすべてがXMLで組まれているまさに「時代の言語」。 そのXMLを専業としたソフトウェア開発会社を1998年創立し、昨年東証マザーズに上場し、XMLのソフトウェア市場においてマイクロソフトを押さえ堂々の2年連続日本一のシェアを獲得しているのがインフォテリア株式会社。今回はそのインフォテリア株式会社 代表取締役 平野洋一郎のソフトウェアにかけてきた半生を綴っていきたい。 インフォテリア株式会社 代表取締役社長 平野洋一郎氏 第1回「肥後もっこす」 平野は今年45歳。マイクロソフトの実績を超える企業連携ソフトウェアを開発するインフォテリアの代表として、確固たる業界内での存在感を確立している半生のはじまりは、火の国 熊本に発している。 『実家は熊本のみかん農家で、私は長男でした。ソフトウェアを学びたくて熊本大学の工学部に入学したものの、実は中退なんですよ。』ソフトウェアを書き始めてから30年が経つと語る平野の最初の転機が熊本大工学部の中退と同時に設立に参画した株式会社キャリーラボだった。 『大学でコンピューターを本格的に勉強しようと思いましたが、あまりにも古かった(笑)。当時はプログラムを読み込ませるのに、パンチカードなどを使っていたのです。自作のパソコンを作っていたような人間だったので、これでは時間の無駄だと大学を中退し、当時の熊大マイコンクラブの先輩と二人でキャリーラボという会社でソフトウェア開発事業を立ち上げたのです。おやじに退学を報告した際には足で蹴られ「帰ってこんちゃよか」と(笑)。いつか父にそのときの選択が正しかったと言わせたい一心でした。25年前ですね。』 そんなエピソードを照れくさそうに語る平野は「最先端IT企業の社長」というよりは「どこまでもコンピューターが好きでたまらない少年」という印象だ。会ったことはないが、諸所で見聞きするマイクロソフトのビル・ゲイツ氏の印象にも共通するものを感じる。そんな経緯でソフトウェアを生業とした平野は、そこですぐにベストセラーソフトを開発し、成功を収めるものの、これも4年で転職することになる。 『実は社長や営業と喧嘩をしまして(笑)。当時日本語ワープロのソフトウェアJET-8801Aというヒット商品を開発したのですが、当時はNECのみ使える8ビットのソフトだったため、時代が16ビットに移り変わる流れを読んでいた我々開発チームは、他のメーカーが8ビットの対応ソフトの開発を依頼してくるのを断ったわけです。それが元で社長や営業と関係が悪くなってしまい、20名ほどいた開発チームほとんどで辞めてしまいました。今となっては若気の至りだったのですが、その経験をもとに自分の作りたいソフトを売るには営業という仕事を知る必要がある、そう感じて営業を勉強しようと考えました。』 熊本の九州男児を象徴する「肥後もっこす」という言葉。一度決めたらてこ(梃子)でも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質を指す。とwikipediaにあるように、自らのプログラミングを礎にしていた平野の誇りと自負は、まさに「火の国」のそれだったようだ。しかしこの経験をもとに、それまで全くといっていいほど縁遠い「営業」という業務に対して勉強しようと考えたところが、ただの血気さかんな若者とは異なる一面を垣間見ることができる。 そして営業経験のない平野を拾ってくれたのが、当時本格的なパソコン時代に突入しつつある日本に、表計算ソフト「1-2-3」を引っさげて進出していた外資系ソフトウェア企業、ロータス株式会社だった。バリバリの技術畑を歩いてきた「肥後もっこす」は、ここロータスでの新たな経験をもとに、現在のインフォテリアの礎ともいえる大きな意識変革を体験することになる。 (第2回へつづく) |