前日本SGI代表取締役社長 和泉法夫さん 第3回「激動のM&A合戦 コンパック・コンピューター時代」(全4回) 「次代の会」会員の皆様 インフルエンザ、大丈夫でしょうか?健康管理にお気をつけてください。 さて前回に引き続き「次代の会 インタビューコーナー」をお送りします。前日本SGI代表取締役社長の和泉法夫さんへのインタビューは3回目、日本タンデム・コンピューターズからコンパックに合併されたお話を中心に伺います。 前日本SGI代表取締役社長 和泉法夫氏 第3回「激動のM&A合戦 コンパック・コンピュータ時代」 Q 先生今日も宜しくお願いいたします。「天下のIBM」から当時40名のベンチャー、日本タンデム・コンピューターズへ転職された後に同社はパソコン大手 コンパックに合併買収されました。しかし買収された側にも関わらず、副社長として就任されましたね。このちょっと変わったエピソードからお聞かせいただけますか? A 買収合併を知らされた日のことをよく覚えています。 社長だった高柳さんから当時私が住んでいた八ヶ岳の自宅に電話をもらいました。 高柳さんいわく「和泉、大変だ。タンデムがコンパックを買収してしまった」というわけです。コンパックは私が扱っていた基幹システムとは違って個人向けパソコンのメーカーでしたから、「なぜ秋葉原で売っているパソコンメーカーなんかを買収するんですか?」というと高柳さんが「和泉君、何を勘違いしているの?企業規模を知らないのか!」というのです。 早速調べてみたら当時全世界のタンデムとコンパックでは売上げの額が10倍違う(笑)。要は私の聞き間違いで買収「された」ことにようやく気が付いたというわけです。 Q それはまたすごい聞き間違いですね(笑)。外資らしいエピソードですねえ。当時規模はどれくらいだったのですか? A 全世界ではコンパックのほうが断然大きいですが、日本ではコンパックは苦戦して伸び悩み、一方のタンデムは全世界のタンデムの牽引役で急成長中でしたから、日本だけはコンパック本社から見ても特別な存在でした。あとから買収交渉の内容を知ったのですがタンデムの企業価値を評価する部分に日本タンデムが儲け頭として高く評価されていました。 そんなわけで買収される側である私たちはいろいろな紆余曲折がありましたが日本だけ例外的に高柳さんが社長になり、買収合併の後の新生コンパックの経営陣はタンデム側で編成されました。ほかのすべての国は例外なくコンパックが経営を担いタンデムがサーバー製品を売る部隊として位置づいていました。 Q ええ!そんなこともあるんですねえ。しかし企業文化の違いをすり合わせるのは難しかったのではないでしょうか。 A そうですね。いろいろな事件がありましたよ。当時アメリカ本社のタンデム出身のVPが日本で社員間になにかまずいことがあるのかと心配してきたことがありました。変だと思っていたところ、当時広報担当だったコンパック出身の社員が「日本はタンデムの経営陣に占領され、まるでタンデムがコンパックを買収したかのようだ!」というようなブラックメールを送っていたのが判明しました。(笑)これは逆転人事の結果生まれたひずみだったのでしょうね。 企業文化の異なる2社を融合させるのは大変な労力がいります。まだ日本が幸いだったのはコンパックがパソコンの代理店販売が中心でタンデムが直販中心だったことです。その上経営を担ったのがタンデム側でしたから日本タンデムの戦略の延長上でビジョンが語れたのでお客様の不安はなくむしろパソコンという製品が加わったことでトータルソリューションを提供できる企業だとして評価があがったものでした。コンパック側の社員も今までやっていることが変わるわけではなかったし直販のための営業部隊を持っていなかったのでこの合併はスムーズにいっていたほうでしょう。 当時家庭用のパソコンであるプレサリオを当時のキヤノン販売(現キヤノンマーケティング)に全面的に販売移管したのもこの時です。このときの立役者がいまの日本のマイクロソフトの樋口社長と窪田専務ですよ。優秀な人材がいましたね。私は代理店販売をやったことがなかったのでコンパックの人材に助けられましたね。だいたい秋葉原の店頭で物を売るなどということは数千万~数億円の製品を扱う常識から考えたこともありませんでしたから。 Q 事業ドメインも企業文化も違う中の合併後、1997年までコンパックの副社長、営業トップとして就任され、その後わずか1年後に日本DEC(デジタル・イクイップメント)を1998年に買収されましたね。その怒涛のM&Aの中で先生はいきなり同社をお辞めになりました。このあたりもかなり激動のドラマがあったのではないですか? A やっとコンパックとの合併がうまく運びだしたところに日本DECの買収ですから経営者としてはたまりませんね。(笑) なにせ日本DECは当時タンデムとコンパックを合わせた社員数の数倍の人数がいましたし、会社のカルチャーが全然違っていて、ビジョンを共有させるには長い時間がかかると思いました。ちょうど50歳になるところでしたから最低5年近くを後ろ向きの仕事に費やすのは無駄と判断しました。高柳さんはじめ我々経営陣がきめた買収であればその苦労も意味がありますが米国の親会社がきめたことを”Yes sir!”とやるには抵抗がありました。またビジョンを共有できない企業に残っていても後は消耗戦ですから、そこが潮時だと思いました。 そこで最後の仕事として合併後の新しい営業組織を作る準備に入りました。当時の日本DECの営業組織は年向序列でカルチャーも非常に強い縦割りの企業風土があって、役職を飛び越えて上司と話すなんてとんでもない、そんな文化と、若手が中心でビヤパーティーで気軽に社長はじめ経営陣と歓談できるカリフォルニアの自由闊達な文化の連中を融合するのには無理があると判断して若手が活躍できるような体制づくりをしてせめてもの恩返しをしようとおもいました。 そこで私は50歳以上の役職者を退職勧奨することにしました。年齢で判断するなんて普通ならセクハラのようなものですが当時はリストラ費用として割増した退職金制度がたっぷりありましたので抵抗もなくスムーズにいきました。組織作りが完了して社内発表したあと、「あ、気がついたら私も50だ」と冗談半分の理由にして退職しましたから一応フェアーではあったと思いますよ。(笑)でもかなり日本DECの人には嫌われていたようです。 後日談で日本DEC最後のコンベンションがあった際に私が辞任したニュースが流れて会場で歓声が沸いたそうです(笑)。それぐらい「悪役」でした。 Q まるでドラマですね。しかしそこまでビジョンにこだわった先生にタンデムのお仲間は賛同されたのですね。退職の願いは簡単に聞き届けられたのですか? A 私は辞職直前社内ではアメリカに行っていることになっていましたが、実は八ヶ岳の自宅にこもっていました。そこで高柳社長に直接話せば引きとめられて十分な話ができないと思い週末に長文のメールを書き高柳さんにおくりました。我ながらなかなかの名文だったと思いますよ。(笑)そして月曜日朝に社長に挨拶に行きました。 退職願を持ってきた私を見て高柳社長は笑いながら「和泉、何しにきたんだ」というわけです。そこで私が辞表を渡すと、中身も見ずに机の横にあったシュレッダーへジジジジ・・・・と(笑)。 でもその直後が高柳社長の人間的な魅力あるところで、「あ!しまった!この封筒に、お金入ってのでは?!」と。一気に沈んだ雰囲気が和みましたね。 この後もしばらく八ヶ岳の自宅に籠っていましたら、夜遅く真っ暗な中入口のところにタクシーが止まって背広姿の幹部社員が数人おりてきました。翻意をさせようと東京から来たのですが‘ミイラ取りがミイラ’ではないですが夜中まで酒を飲み私のほうが彼らを説得した次第です。さらにびっくりしたことに説得作業を諦めた連中と大宴会をしている途中ひとりが森の中に人影があったというので大騒ぎになりました。実は高柳さんが小諸の別荘に行く途中に顔を出したのでした。本当につらい決断でしたけれども素晴らしい仲間達でしたね。 Q (笑) いやー、しかしお話をお伺いすると本当に魅力的で熱い方が多いですね。男気があるというか器が大きいというか。すばらしいですね。 A やはりベンチャーが成長していく過程に燃える軍団ができれば強い組織になりますよ。当時はそれぞれに夢とビジョンを持った連中がたくさんいましたね。 Q さて、いよいよ先生が自らのビジョンをかたちにするために社長として日本SGIへ移られるわけですね。次回の最終回では日本SGIでのお話と、先生の今後に関してお話をお聞かせください。よろしくお願い致します。 A よろしくお願いします。 |