元日本IBM取締役副社長 丸山力さん 第2回 「IBM時代のエピソード」(全4回)

「次代の会インタビューコーナー」第2回目は、前回に引き続き元日本IBM取締役副社長 丸山 力(つとむ)さんにお話をお伺いしました。
丸山さんは1990年に世に出された、IBMのパソコンを特別なハードを使わずに日本語環境で使用できるOS「DOS/V」の開発から営業まで一貫して関わったいわば「DOS/V生みの親」。
DOS/Vマシーンの普及に成功した後も、さらにいろいろなエピソードをお持ちです。


Q 先生、前回ではDOS/Vマシーンの開発からはじまり、日本でのシェア拡大に成功するまでに通ってこられた軌跡をお聞きしました。その後先生はどんなお仕事をされたのですか?

A 日本でのパソコンの標準化をDOS/Vマシーンの普及により成功させた後、液晶ディスプレイの事業に携わりました。液晶事業というのは装置産業であり、投資額が非常に大きな事業だったのです。担当した時は思ったほど製品が売れず、毎月固定費がかさみ、ビジネス的に大変苦労をしていました。世界的な需要と供給のバランスの崩れがある周期で定期的に引き起こされるいわゆる「クリスタルサイクル」の底だったのですね。需給の逆転も突然やってきたのですが、以後その周期を読むのが仕事となりました。供給が足りなくなると色々な差別化戦略を考える事ができます。自社のノートPCの開発グループと共同で12.1インチの液晶を載せたノートPCを世界で初めて世に出したのもそのうちの一つです。

そのうちに液晶ディスプレイは世界中のノートPCやモニター・ディスプレイに採用されてパソコンの汎用部品となり、大量の需要が見込まれるようになりました。しかしそれには善し悪しがあるのですね。 PCメーカーが部品を調達する場合、供給源の確保と競争価格を維持するために、供給先を複数にする、いわゆる「セカンドソース」方針を採るのです。この場合、私のところが技術的に優れていて差別化されていても、逆にそれが理由で買ってくれないのですね。つまり、このころから液晶ディスプレイは技術的な差別化戦略が効かなくなり、業界トップクラスの量を出荷することのみが利益を生むというコモディティ商品の仲間入りをしてしまったのです。
IBMは程なく液晶ディスプレイ事業から撤収をいたしました。その頃液晶を開発・製造していたメンバーはその後アジアでいくつかの液晶工場建設の指導をしています。

Q  なるほど、液晶の開発というのはまさにグローバル化の流れと共に発展してきたのですね。昨今の中国、インドのグローバル的な発展もめざましいものがありますが。

A グローバル化について感じるのですが、80年代の日本人の多くは英語での主張は苦手なのですが、計算や考えが緻密な傾向を持っていました。MBAのクラスでは欧米人が積極的に手をあげるのですが、計算の答えには意外と間違いが多かったことを覚えています。その反面授業中、手を上げない静かな日本人の計算は殆ど合っていました。(笑)。
緻密な考え方と手先の器用さ、そして為替の安さはアジアの国々が現在、世界の工場と呼ばれている所以ですね。今、製品の組み立てでは世界で一番強い立場にあると思います。80年代、これらの強さを使って世界の経済大国になったのが日本でした。今、同じようなやり方で中国、インドが発展しています。
円高の下、日本国内ではどれだけ技術が優れていても、為替による差額部分をコストダウンで乗り切れるわけではありませんね。特に液晶の営業では、この為替差によって非常に苦しい思いをしました。

経済学の先生方はあまり為替には触れません。なぜかと聞きますと「自分の力ではどうしようもないから」だそうです(笑)。しかし我々のようにグローバル化した社会で戦わなければならない経営者はそういうわけにもいきません。
振り返って見ると、かつて日本が成功した、また現在中国・インドで成功しているビジネス・モデルは「緻密な考え方と手先の器用さ、そして為替の安さ」からなっている「無声ビジネス」が殆どなのですね。「ものづくり」のように、良いモノが安ければ、世界で売れるというモデルであり、モノがものを言っているのです。円高の下、これからの日本は英語力をつけ、世界で交渉力を発揮し、「有声ビジネス」を伸ばして行く必要があります。

Q なるほど、為替に関してはあって当たり前のように私も考えていましたが、確かにそれをコストダウンで乗り切るには大きすぎる問題なのですね。
グローバル化の事業戦略の中でいろいろご苦労もおありかと思いますが、中でも大変だったというエピソードをお聞かせいただけますか?

A 最も大変だったのは、時期は遡りますが、ポータブルPCを日本のメーカーと共同で開発して世界市場に向けて販売をしようという計画があった1988年のころですね。当時私は日本で製品を開発・製造して世界に出荷しようとしていました。ところが、開発が終わる頃、某社による「ココム違反事件」がおき、アメリカが日本製のポータブルPCに対して「関税100%」を課したのです。それでは売れるわけがありません。当時大統領選が行われていたので、体制が新しくなれば変わるかと思いきや、大統領選が終わっても変わらない。本当に困りました。

それならアメリカで作るしかないと急遽、協力会社に頼み、現地で、製造工程を立ち上げ、組立員を雇用し、訓練し、作業を始めて貰ったのですが、日本から作業指示が正しく伝わらなかったり、雇った人の手の大きさでは細かい作業がやりにくかったり大変でした。(笑)。
最終的にこのプロジェクトは予定の期日を大幅に超え出荷にこぎ着けましたが、結果的には販売量が予算を大幅に上回り、成功裏におわりました。それがきっかけで、IBMからレノボに移りはしましたが、ThinkPadというポータブルPCは今でも日本が開発の中心になっています。

当時私はマネジメントとして、いつも最悪の事態を仮定し、万が一にも起こってはいけないことを常に考えたのですね。ところが、それが殆ど当たってしまうのです。部下からは考えないで欲しいと言われたくらいです(笑)。当時、部下には絶対言わなかったのですが、そのとき私は数え年で43歳の後厄だったのですね。お正月には、それまで神社など行ったことはなかったのですが、近所の神社やお寺、三ヶ所にお参りしました。その後は「万が一」が当たらなくなりましたけどね(笑)。

Q 今聞けば笑いながらお聞きできる話ですが、当時はそれこそ笑えない深刻な状況だったのでしょうね。しかも成功もトラブルもスケールが大きいなあ。
先生、次回はこれからの企業の戦略などに関してお話をお伺いさせてください。
A はい、よろしくお願いします。
Comments