元日本IBM取締役副社長 丸山力さん 第1回 「DOS/V開発と普及への道のり」(全4回)



「次代の会インタビューコーナー」第1回目は、元日本IBM取締役副社長 丸山 力(つとむ)さんにお話をお伺いしました。
丸山さんは1990年に世に出された、IBMのパソコンを特別なハードを使わずに日本語環境で使用できるOS「DOS/V」の開発から営業まで一貫して関わったいわば「DOS/V生みの親」。IBMを退職され、現在は東京大学大学院 工学系研究科 技術経営戦略学専攻の先生をされておられます。
今回はDOS/Vの苦労話などを含め、現代社会の経営学など、いろいろとお伺いしてみます!


第1回「DOS/V開発と普及への道のり」

Q 先生今日はよろしくお願いします。まず先生のご経歴からお話頂けますか?

A よろしくお願いします。私がIBMに入社したのは1971年です。当時IBMは日本での活動を強化していた最中で、私の入社後1ヶ月で日本に開発研究所を設立したような時代でしたね。ご承知のように1970年代後半から1980年代にかけて日本の製造業は絶頂期を迎え、以降も世界の工場はアジアに集まっています。私はIBMでパソコン関連の技術や製品の開発・製造を中心に担当してきたのですが、この分野で、日本とアジアの強さをバックに仕事ができたことは、とてもラッキーだったと思います。

Q なるほど、時期的にも日本のパソコンを普及させる流れに乗ってこられたわけですね。渡米されて仕事を始められたときの印象はどんなものでしたか?

A 渡米して最初に感じたことは工場には「それほどびっくりするほどの人がいないな、と(笑)。」というのも当時の日本では、研究開発と製造がしっかり分かれていたアメリカなどと違って、優秀な理系の学生を工場に入れ、工場がプロフィットセンターになり、開発した人が製造へ移動もしていました。そんな中で日本の製造が強いのは当たり前の話であるという認識でした。
当時は私たち日本の技術者が何かを話し始めると、アメリカ人は話を止め、しっかり聞いてくれるような雰囲気がありましたね。今とは大分違います。

Q その後DOS/Vの普及活動をされたのですが、活動は順風満帆の道のりだったのですか?

私は当初、通信端末の開発を担当していたのですが、それが企業向けの多機能端末に発展し、パソコンとも見なされていました。その後ポータブルPCを開発し、その流れがIBMのノートPC ThinkPadの日本での開発に繋がっています。
その後アジア太平洋地域のパソコンやプリンターのビジネスの責任者となりました。立場上各国のパソコンのシェア向上をはからなくてはならないのですが、足下の日本でのシェアが大きくありません。当時日本の企業におけるパソコンの売上シェアは多機能端末の普及により年1回の日経の調査では、1、2を争っていたのですが、いわゆるパソコンの台数シェアとなると、殆ど見えません。よくアメリカで「なぜ日本では売れないのか」と詰められました(笑)。また当時のパソコンの動向調査は秋葉原や日本橋の情報のみを流していたのですね。つまり秋葉原で結果を出さなければビジビリティはないのです。

その頃の秋葉原はどうかというと、昔ながらの「家電の町」に少しパソコンが流通している状況でした。私が秋葉原のラオックスにいってみたら1階の本売場ではNECのPC9801の本や雑誌が殆どであと、アップルと東芝のダイナブック、FMタウンズの本を少し置いてありました。ソフトや周辺機器の品揃えも同じようなものです。ここを通った人がIBMのパソコンを買うことはあり得ないと直ぐに分かります。なぜなら、今では信じられないかも知れませんが、当時の日本の各社のパソコンは同じマイクロソフト社のMD-DOSというOSを使ってはいましたが、ハードウェアの仕様は各社固有でソフトウェアや周辺機器の互換性は無かったのです。DOS/Vの普及活動は日本において雑誌などを含めた、当時圧倒的シェアを占めているNECアーキテクチャーのインフラに対する、世界標準のIBM PC-ATアーキテクチャーのインフラ構築の勝負だったのです。

秋葉原、日本橋の本屋のスペースにどうやってDOS/V関連の本を置くか、ソフトと周辺機器の棚にどうやってスペースを確保するかという戦略をたててDOS/Vマシーンの普及に奮闘しました。しかしDOS/Vマシーンの普及と雑誌、ソフトウェア、周辺機器の売場スペースの確保は「鶏と卵」の関係なのですね。つまり、DOS/Vマシーンが売れていないと雑誌、ソフトウェア、周辺機器が売れない。雑誌、ソフトウェア、周辺機器が陳列されていないとDOS/Vマシーンが売れない。周辺機器など店によっては一週間動きが無いと全て倉庫行きだと言われていました。
そんな二竦み状態を打破してくれたのは、台湾などから安いパーツを買ってきて組み立てて売る「ショップブランド」の方々の存在でした。ショップブランドのDOS/Vマシーンが売れていくにつれて、知名度が上がり、雑誌、ソフトウェア、周辺機器がどんどんと売れていったのです。またそれがDOS/Vのファンをつくることに大きく貢献してくれたのです。

その後約3年程して、私の地元である徳島の本屋にもDOS/Vの本が平積みにされるようになったのですね。日本市場へ世界標準のDOS/Vパソコンを普及させる事業の成功を確信しました。本当に嬉しかったですねえ。また、その過程で秋葉原が家電の町から新しい情報発信の拠点となる町へとシフトチェンジしたことをお店の方々から感謝されたのは感無量でした。

Q なるほど、当時のパソコンのハード黎明期においてはソフトウェア、周辺機器、書籍関係などのインフラの構築が結果的にシェアを拡大するという戦略が重要だったのですね。
では先生、次回はさらにその他の奮闘歴を詳しくお聞かせください。

A はい、いろいろと苦しい事は多かったのですが(笑) 次回もよろしくお願いします。
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